就職---林芙美子
何をそんなに腹をたててゐるのかわからなかつた。埼子は松の根方に腰をかけて、そこいらにある小石をひろつては、海の方へ、男の子のやうな手つきで、「えゝいツ」と云つては投げつけてゐた。石は二三間位しか飛ばないで、その邊の砂地の上へ濕つた音をたてておちてゐる。冬の濱邊は、時々遠くの方から、ごおつごおつと風を卷きたててゐた。空には雲の影もないのに薄陽が針をこぼしたやうに砂地にやはらかい光をおとしてゐる。埼子は急に砂地の上へ轉び、犬のあがきのやうに、乾いた砂地をごろごろ轉げてみた。砂は襟の中や、袖や、裾から埼子の熱い躯に觸れてくる。埼子は汗ばんだ肌へ少しづつ砂がはいつてくるのが氣持がよかつた。しまひには、胸をひろげて、乾いた砂を胸へすくひこんでゐる。砂は汐臭い海の匂ひがしてゐた。兩手に砂をすくつてシャワーだと云つて裸の膝小僧にもふりかけてみた。時々、小人島の風のやうなあるかなきかの龍卷が、埼子の頬へ砂風を吹きつけてくる。膝小僧の上の砂もさらさらと風に吹き散らされて、柔らかい、まるい膝小僧が薄あかく陽に光つてゐる。
埼子は急に砂の上に立ちあがつた。背中にも胸にも砂がざりざりしてゐる。埼子は髮の毛をゆすぶり、頭髮の砂をはらひおとすと躯ぢゆうの砂だけは一粒でもおとさないやうにと、息をつめて家へ走つて行つた。Z$b}1rv1T
埼子が變な恰好で濱邊から走つて來るのを、二階のサン・ルームから眺めてゐた謙一は、急いで梯子段を降りて行つてみた。+x*q#v qT;\.us
「埼ちやん、どうしたんだい、頬つぺたなんかふくらましたりして‥‥」
縁側へ謙一が出てゆくと、埼子はいまにも、嘔吐のきさうな變な樣子をして、謙一に「早く、早く‥‥」と云つた。謙一はどうしていゝかわからないので、座敷へ走りこんでゐる埼子の後から急いでついていつてみた。埼子は座敷へ這入ると、謙一をふりかへつて、しばらくぢつとみつめてゐたけれど、急に羽織をぬぎ、足袋をぬいで、ぱつぱと躯を激しくゆすぶつてゐる。衿や、袖や、胸にたまつてゐた砂が、ざらざらと新しい疊の上に落ちこぼれた。S5yR-g^#`
「どうしたンです?」Z;}q$?/D!hA
「あのねえ、あなたにお土産を持つて來たのよ‥‥」
埼子は自分で躯をゆすぶりながら青くなつてゐた。謙一は呆れて埼子をみつめてゐる。埼子は帶をといた。そして、帶をそこへときすてたまゝ自分の部屋へ走つて行つた。謙一は疊の上の砂を眺めてゐたが、急に、熱いものが胸に沁みてきた。埼子の淋しさが、昨日からの自分を責めてゐるやうにもとれる。謙一はさつき濱邊まで埼子を探しに行つたのだけれど、埼子を探すことが出來ずに戻つてきたのであつた。謙一はしばらく座敷へつゝ立つてゐたが、心のうちでは、埼子へ對する激しい愛慕の氣持がつきあげてきてゐた。
謙一は埼子の部屋へ行つてみた。埼子はもう洋服に着替へて濡れ手拭で顏を拭いてゐる處だつた。
「ねえ、ごめんなさいね‥‥」
「‥‥‥‥」
「怒つた?」
「何を怒ることがあるンです? 怒ることなんかありやアしませんよ。――さつき、僕も濱に行つてみたンだけど‥‥」
「さうお、私ずつと遠い處へ散歩に行つてゐたの‥‥」
埼子は鏡の中の謙一にふふふと笑つてみせた。謙一は急に蹲踞んで、埼子の肩を抱き埼子の額に接吻をした。埼子は濡れ手拭を持つたまゝ、しばらく謙一の胸に凭れてゐたが、急に身を起して、Z4{8x2q4S:H e
「厭よ! 厭だア、あつちへ行つてよ、謙兄さん大嫌ひだ、大嫌ひ!」I ?3T#zV/\N'm8k
と、鏡の中の謙一へ濡れ手拭を投げつけた。さうして立ちあがると、壁へ凭れて、
「新京でも、何處でもいらつしやい。どうして、勝手に一人でそんな處をきめてしまつたのよ。――新京なんて、そんな遠い處へ何故行かなくちやならないの? 新京なんかへ行くために、謙兄さんは大學へ行つてたのツ?」
埼子は一氣にまくしたててゐる。謙一は默つてゐた。小柄で顏の小さい埼子が、まるで謙一には女學生のやうに見えた。二十一の女とはどうしても思へない。
「莫迦だなア、埼ちやんだつて、新京へ遊びに來てくれればいゝぢやないか、何も一生逢へないつて云ふンぢやないでせう?」s q+T)TI8p6u Bo P{
「だつてどうしてそんな遠い處へ職業を選んだりするのよ。――お姉さんが遠くへ行つちまつたからでせう? 私なんかのことなんか謙兄さんが考へてゐるなんて思はないわ。私は、とてもそれが癪にさはつてるのよ。‥‥」nyY3J7s0y
急にけたゝましく、机の上の時計の鈴が鳴りはじめた。埼子は、腹立たしさうに時計をつかんだ。謙一は埼子の狂人じみた樣子に吃驚して、ぢつと埼子を眺めてゐる。埼子は窓を開けると、鈴の鳴つてゐる時計を庭へ投げつけた。開けた窓から寒い風が吹きこんで、遠雷のやうな海鳴の音がきこえてくる。
謙一は廊下へ出て行つて、庭に投げ捨てられた時計をひろひに行つた。全く、埼子が云ふまでもなく、新京なんかに就職をしようとは、一週間前までも自分は考へてはゐなかつたのだ。學校を出たら、東京に勤めるものとばかり考へてゐたし、現に、自分も學校の就職係には、東京電燈とか、三井、三菱なんかに履歴書を出しておいたのであるけれども、謙一は、急に、それらの就職口をとりやめて、自分だけ新京の××製鋼會社へ就職することになつたのである。
青年の氣まぐれとは云ひきれない、何かしら、鬱勃とした思ひが謙一の若い心をかりたててゐたのだ。狹い日本の内地で、小さい椅子にしがみついてゐるよりも、遠い處へ行つて、思ふぞんぶん働いてみたい、と思つてゐた。新京は純粹な新興都市であり、この戰時下にもりもり發展しつゝある製鋼事業は、若い謙一に働く魅力を感じさせた。
急に、新京へ職がきまつたことを、埼子の兩親に打ちあけた時、流石に埼子の兩親は驚きもし、そんな遠い土地へ行かうとする謙一の氣持を不思議がつてもゐた。