中国古典名著《三国志》(三国演义)日文版连载(2)董卓伝
董卓は字を仲穎といい、隴西臨洮の人である。[一]若いころから義俠を好み、あるとき羌族の里へ行き、豪族たちと一人残らず交わりを結んだ。のちに田野を耕すため帰郷しようとすると、豪族のうちには後から付いてくる者もあったので、董卓は彼らとともに帰り、農耕牛を殺して一緒に酒宴を楽しんだ。豪族たちはその心意気に感銘し、帰国してからさまざまな家畜を互いに出し合い、千頭余りになったので、それを董卓への贈り物とした。[二]漢の桓帝(劉志)の末期、六郡の良家の子ということで羽林郎となった。董卓は才能?武勇の持ち主であり、膂力で太刀打ちできる者は少なく、二つの鞬を身に帯びて左右に馳せながら弓を射た。軍司馬として中郎将張奐の幷州征討に従軍し、功績を立てて郎中を拝命、練り絹九千匹を賜ったが、董卓は全て官吏?兵士に分け与えてしまった。広武の県令、蜀郡北部都尉、西域戊己校尉と昇進していったが、罷免された。中央に徴し寄せられて幷州刺史、河東太守を拝命、[三]中郎将に昇進して黄巾賊を討伐したが、戦いに敗れて罪を科せられる。韓遂らが涼州で挙兵したので、ふたたび中郎将となり、西進して韓遂を防いだ。望垣硤の北方にて羌族?胡族数万人の包囲を受け、食糧が底を突いた。董卓は魚を捕るふりをして退路を堰きとめ、川の渡し場を池に変えて周囲数十里に水を湛えた。密かに堰の下から自軍を通し、それから堰を決壊させた。羌族?胡族が気付いて追いかけてきたころには、もう水位が高まっていて渡ることができなかった。このとき六手の軍勢が隴西に攻め上ったが、五手が敗北し、董卓だけが人数を損ねることなく帰還し、扶風に駐屯した。前将軍を拝命して斄郷侯に封ぜられ、徴し寄せられて幷州牧となった。[四][一] 『英雄記』に言う。董卓の父董君雅は、低い官職から潁川綸氏の県尉となった。三人の子があり、長子の董擢は字を孟高といったが、早くに卒去した。次子が董卓で、董卓の弟董旻は字を叔穎といった。
[二] 『呉書』に言う。郡は董卓を召し出して役人とし、盗賊を仕切らせた。あるとき胡族が侵入して数多くの民衆を拐かしたので、涼州刺史成就は董卓を召し寄せて従事とし、歩騎を率いさせ討伐させたところ、それを大いに打ち破り、斬首捕虜は千人ほどもあった。幷州刺史段熲が董卓を公府(三公の役所)に推薦すると、司徒袁隗が召し寄せて掾とした。?a7Q`7G
[三] 『英雄記』に言う。董卓は何度も羌族?胡族を討伐し、前後して百回以上も戦った。9I(n] dd$jg4A
[四] 『霊帝紀』に言う。中平五年(一八八)、董卓を徴し寄せて少府とし、麾下の官吏?兵士を伴って左将軍皇甫嵩の指揮下に入り、行在所に参詣せよとの詔勅が下された。董卓は上奏して述べた。「涼州は混乱して鯨のごとき巨悪はいまだ滅びず、これこそ臣の発奮して命を捨てる秋でございます。官吏兵士は勇躍して御恩を思っては恩返しを願い、おのおのが臣の馬車を遮り、声音は懇々と真心がこもっておりますので、いまだ帰途に就くことができませぬ。しばし行前将軍事として誠意を尽くして(彼らの)慰安に当たり、軍務に尽力いたしたく存じまする。」六年、董卓を幷州牧とし、官吏?兵士を皇甫嵩に引き継がせるよう重ねて詔勅を下した。董卓はまたも上奏して言った。「臣が兵事に携わって十年、士卒どもは老若を問わず仲睦まじくなって久しく、臣が養育した恩恵を慕い、国家の御為に緊急の命令にも奮起して応えたいものと願っております。なにとぞ州への着任と辺境での尽力をお許しくださいますよう。」董卓は二度までも詔勅に違背したのであるが、ちょうどそのとき何進に召し寄せられた(ので、処罰されることはなかった)。)D"TN:q&~)|8}"C
霊帝(劉宏)が崩御して少帝(劉弁)が即位した。大将軍何進は司隷校尉袁紹とともに宦官たちを誅殺せんと謀議したが、太后が聞き入れなかった。何進はそこで董卓を召し寄せて軍勢を率いて京師へ参詣させるとともに、密かに以下のごとく上書させた。「中常侍張譲らはご寵愛を利用して海内を混乱させております。むかし趙鞅は晋陽の武装兵を起こして君側の悪を駆逐いたしました。臣は速やかに鐘鼓を鳴らしつつ洛陽へ赴き、ただちに張譲らを討伐いたします。」こうして太后を脅迫するつもりだったのである。董卓が到着する以前に何進は敗北した。[一]中常侍段珪らは帝を人質に取って小平津へ逃れた。董卓はそのまま軍勢を率いて北芒にて帝を迎え入れ、宮殿に帰還した。[二]ときに何進の弟である車騎将軍何苗が何進の手勢に殺されたため、[三]何進?何苗の部曲は所属先を失い、みな董卓のもとへ参詣した。董卓はさらに執金吾丁原を呂布に殺させ、その軍勢を併合した。こうして京都の兵権はただ董卓だけが持つことになった。[四]
[一] 『続漢書』に言う。何進は字を遂高といい、南陽の人であり、太后の異母兄にあたる。何進は本来、屠殺夫の家の子で、父を何真といった。何真の死後、何進は黄門の世話で妹を掖庭に入れてもらい、(妹が)寵愛を得て、光和三年(一八〇)に皇后に立てられた。何進はそれによってご寵愛の貴人になったのである。中平元年(一八四)、黄巾賊が蜂起したので、何進を大将軍に任命した。 『典略』に載せる董卓の上表に言う。「臣が伏して思いまするに、天下に絶えず叛逆が起こるのは、みなみな黄門常侍張譲らが天道を侮って王命に操作を勝手に加え、父子兄弟がみな州郡に居すわり、一たび手紙を出せばたちまち千金を手に入れるという有様で、近畿諸郡の肥沃な美田数百万頃がみな張譲らの手に落ちているからなのでございます。こうして(人々の)怨恨が募り、妖賊が蜂起するに至ったのであります。臣がかつて詔勅を奉じて於夫羅を討伐いたしましたおり、将兵は飢えに苦しんで川を渡ることを承知せず、みな口々に、京師に参詣してまず宦官どもを誅殺し、民衆の害毒を取り除いて台閣へ資金を請求したい、と申しておりました。臣がなだめなだめながらようやく新安に着いたものです。湯を持ち上げて沸騰を止めるのは薪を抜いて火を消すほどのことでなく、腫れ物を潰すのは痛くとも肉を培養するよりはましだ、と臣は聞いております。溺れてから船を呼び、後悔しても間に合わないのでございます。」 Dl1Ng4E3k7P?
[二] 張璠の『漢紀』に言う。帝は八月庚午に黄門たちの人質となり、穀門から歩いて出てゆき、黄河のほとりまで逃れた。黄門たちは黄河に身を投げて死んだ。ときに帝は十四歳、陳留王(劉協)は九歳であった。夜中、兄弟二人だけで歩いて宮殿に帰ろうとした。暗闇のさなか蛍の火を追いながら歩き、数里先で民家を見付け、露車で送り出された。辛未、公卿以下、董卓とともに北芒の坂の下にて帝を出迎えた。 『献帝春秋』に言う。それ以前のこと、童謡の文句にこうあった。「侯は侯でなし、王は王でなし。千乗の車、万騎の馬が北芒に走る。」董卓はちょうど到着したばかりで顕陽苑に屯していたが、帝が帰ってくると聞き、軍勢を率いて帝を出迎えに行った。 『典略』に言う。董卓の軍勢を遠目に見るなり帝が涙を流したので、公卿たちは董卓に「兵を退けとの詔勅だ」と告げた。董卓は「貴公らは国家の大臣でありながら王室を是正することもできず、挙げ句、国家を流浪させてしまった。兵を退けとは何事か!」と言い、そのまま連れ立って入城した。 『献帝紀』に言う。董卓は帝と語り合ったが、会話がよく了からなかった。そこで改めて陳留王と語り合い、混乱の起こった理由を訊ねたところ、陳留王の返答は、終始、抜かりないものであった。董卓はいたく喜び、以来、廃立の企みを持つようになったのである。 『英雄記』に言う。河南中部掾閔貢が帝と陳留王を先導して都を目指し、雒舎で宿泊した。一匹の馬には帝が一人で乗り、一匹の馬には陳留王と閔貢とが一緒に乗り、雒舎から南へと出発した。公卿百官が北芒の坂の下で奉迎し、故の太尉崔烈が先導した。董卓が歩騎数千人を率いて出迎えに来ると、崔烈は怒鳴って退けようとした。董卓は崔烈を罵って「昼夜通して三百里もやって来たものを、なにゆえ退けなどと言うか。我が貴卿の頭を斬れぬと?」と言い、帝のもとに進み出て拝謁し、「陛下が常侍?小黄門どもに混乱を起こさせ、このような有様になったのでございます。災難を招いた責任は小さくありませんな?」と述べ、また陳留王のもとへ走り寄って「我が董卓でございます。我がお抱えして参りましょう」と告げ、閔貢の懐から陳留王を取り上げた。 『英雄記』に言う。ある本では、陳留王が董卓の抱擁を拒んだので、董卓は陳留王と轡を並べて馬を進めた、という。